このページの責任者自身の話です。大学在学中に、祖父母の人生を聞いてまとめる課題があり、私は祖父にインタビューをお願いしました。祖父は理知的だけれども寡黙で私的な部分を開示しないどこかミステリアスなところがありました。静かな祖父の内面を知るきっかけにしようと思い、この課題に感謝をしたものです。話を聞いたメモが今手元にないため、今記憶している事柄を記します。
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祖父は1925年生まれ、信越地方の旧制中学在学中に戦争を体験した。陸上競技に熱中し、旧制中学では陸上競技に熱中し、全国大会に出場した。盆暮正月なく練習に明け暮れたというほど彼が熱中した競技の名前を聞いたが、そんなものもうない、と一言。戦時中だけにあった種目で、戦争に使うスキルを使いながらゴールを競う団体競技とだけ説明してくれた。
学徒動員によりステンレス工場で働いたあと、繰り上げ徴兵され、甲種合格、陸軍士官学校在学中に終戦を迎えた。
祖父は、主に子どもの時、思春期に経験した戦時中の様子を詳しく語った。祖父は普段ものごとを端的に話すのだが、このときは、軍歌の歌詞やゲートルの巻き方など詳細を話し、当時の私には理解できない部分もたくさんあった。
近所の放火魔が少年院経由で最前線に送られ南方で戦死したこと、近所の人もたくさん戦地から帰ってこなかったこと、社会全体が日本は強く神風が吹くなど根拠ないことを熱にうなされるように信じていた、信じ込まされていた、その結果大勢が死んでいったと言った。冷静な戦況報告の代わりに勝利を信じこまされる報道ばかりで疑いもなく、みんなで信じ込んでいたと。このときの祖父の言い方は自虐的であった。周りがみんなそう思って、そう思わされてきて、馬鹿だった、絶対にあんなことをしてはいけないと言った。
終戦直後、繰り上げ卒業で勉強もそこそこのまま20歳で教員になり、初めて生家をでて暮らした山の中の村での暮らしが素晴らしかったそうで、この穏やかな自然に包まれた暮らしについて何度も話していた。しかし、祖父にその続きを聞くと、そのあとの人生は孫である私の知る通りだ、と言った。いや、結婚したり子どもたちが生まれたり、私が生まれるまでのことはよく知らない、どうなのかと食い下がったが、祖父は答えることなくそのまま農作業に出かけていった。
その話の終わり方のインパクトはとても強かった。私は茫然と居間に取り残されて、ショックを受けたまましばらくその場所から動けなかった。祖父の人生は終戦で一度終わり、戦後の人生はすべて余生なのだと感じた。戦争の傷の重みを感じ、このときの感覚が強烈に残っている。また、同じ頃、祖父母と一緒にハワイに行ったことがあるが、帰りの飛行機の中から、祖父は地図と窓の外を交互に見つめた後、しばらく窓の外を食い入るように見ていた。何かと聞くと、ミッドウェーだと言った。真っ青な明るい青い澄んだ海に浮かぶ緑の島が見えた。この時の祖父も強烈に覚えている。

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